「愛の神々」はしがき
 私の生家の旧屋敷跡(新潟県南魚沼郡六日町上之原)と現住屋(同町小栗山)には十数基の神、石像があった。その中には双体道祖神像が一基交じっていた。私は幼少の頃から道祖神の神名だけは知っていた。 
 中年、地方新聞の編集を担当して探訪の途次道端でよく道祖神を見、また県民俗学会の数次の共同探訪に参加し、また「中魚沼の物語」の執筆を県民俗学会の鼻祖といわれた小林存先生に依頼し、各地を案内してして歩くうち道祖神に出会い、道祖神教育を受けた。型破りの神とはいえ、庶民であるわれわれの祖先が心のよりどころとして、熱く信仰して来たその遺跡を見、いつの間にか道祖神の虜となっていた。

 苦しい生活の余暇をぬすんでの私の道祖神巡礼が初まったのである。幸い数多いいわゆる道祖神博士の知遇を得、指導を仰ぎ、案内を求め、また多数の同好の士と共同探訪して20有余年を閲した。そして県内は勿論、濃密地といわれる中部五県はかなり詳しく歩いた。九州、山陰、奥三河、富山、東北方面も歩いた。使いものにならないようなものを入れるとネガは四万枚近くになった。
 はじめ魚沼地域のものをまとめて見ようと思った。しかし県内にはその足で現地をたんねんに踏み、すべて自分のカメラにおさめた人はないからと、すすめてくれる人もあって案内書、ガイド版のようなものを作って見た。

 素より私の頭は粗雑、ききちがいや見誤りなどは随所にあるだろう。この点前以って謝っておく。二十年余の道祖神の所産がこれか、一茶の「これがまあついの住家か雪五尺」の句が思われる。本県には道祖神はないといわれたが、探訪したら四百近くもあった。我れながらびっくりしてしまった。
 現地に自分で出向き、自分のカメラにおさめたが、中には忘れてしまったものもあり、県内はかなり詳しく調査したつもりだが、調査漏れもあると思われるので、御寛容願いたい。

 双体道祖神にしぼって見ると、関東中部五県が濃密地帯といえよう。神奈川県は県文化財保護課の事業として、昭和48年度から7年計画で悉皆調査に着手し昭和54年度に完了し、双体、文字、奇石など道祖神は全部で2841体を数えたとの報告書が刊行されている。
 神奈川県の他に長野、山梨、群馬、静岡(徳川の本拠地の府中、現在の静岡市周辺にはない)の各県に多く分布する。長野県、山梨県、群馬県の三県も神奈川県以上に道祖神が多くある県で、その他富山県、奥三河、鳥取県伯耆の大山の麓に多少まとまってある。日本アルプスの西側から西の地方にほとんどない。陰陽石などを道祖神といわず、塞の神と呼んでいる。奥州では金精さまと呼ぶ地方が多い。私が調査してまわった感想として、道祖神は農耕地に多く、それも山寄りの地域に多く見られる。また、道神、防塞の神として、山麓をまわる古道のようなところに多い。
 本県も西南部の南蒲原郡下田、栃尾、南魚沼、中魚沼、北魚沼の三郡、刈羽郡の高柳、柏崎、柿崎あたりに集中している。柏崎辺では町中、海辺にもあったと、古老たちはいっていたが、明治年間道普請などで処分されたか市街地や海辺には少ない。

 徳川幕府は、真言密教の一派と陰陽道とが混合してできた立川流(男女の交合をもって即身成仏の秘術と称し男女が雑魚寝をして荒行をしたといい邪教とした)などを弾圧したと同様、道祖神の祭祀は、神社仏閣の祭祀とは、全然かかわりがなかった。純然たる民間信仰の中で生きつづけたもので、生産と生殖は同じであるという古来からの民俗に根ざした信仰といえよう。
 道祖神の信仰として多いのは、子授け、子育など子供の神とするところが多い。それは生産と生殖は同じだといったが、本県でも双体像のうち、徳利、盃を持つ祝言像が多いことでもわかろう。佐渡郡にある文字碑の道祖神で「金勢道祖神」なども、祝言像と同じ気持ちから彫碑されたものだろう。しかし、佐渡には道祖神はわずかしかない。佐渡では幕府の金山奉行が目を光らせていたためか。

 最後に、道祖神建立に当って用いられた石材についてふれると、石は重いもので輸送が困難なため、ほとんど土地のものを用いている。多いのは花崗石、玄武石、左岩等である。また、石工では太郎兵衛のものが六日町に多い。
 道祖神探訪をはじめて二十年余。長いといえば長いし、あっという間に過ぎ去った二十余年ともいえるが、県下の道祖神さまを探訪、巡拝して思われることは、庶民の祖先が信仰して今日まで集落をお守り下さった尊い神だということである。そのうち幾体かは紛失したり盗難に遭ったりして現存しないのは残念である。
 道祖神の双体像の中には接吻したり、交合したりした像もあり、禁止こそしなかったが、前記の静岡市周辺にはないという結果があらわれたものであろう。
 愛知県では三河地方の数少い道祖神を県の重要民俗文化財として指定していることを知り、像容のよいものや歴史的価値あるものなど、本県でも是非、文化財として指定し保存に力をいたしていただきたいと念願する次第である。
昭和60年7月31日   山 内  軍 平